前回の記事は、こう締めくくられていた。

大きな資本がクラブを変えたことは確認できる。しかし、その資本が入る前、そのクラブにはすでに何があったのか。

今回は、その「前」へ戻る。ここでいう「資本が入る前」とは、お金がまったくなかった時代のことではない。クラブの姿を変えるほどの大規模な資本が入るより前、という意味である。

Liverpoolは2部にいた。Real Madridは内戦で荒れたスタジアムを抱えていた。Chelseaは、自分たちのスタジアムの土地さえ持っていなかった。

それでも、各クラブの周りには人がいた。監督、取締役、会長、会員、銀行、ファン出身の投資家、そして観客。立場の違う人々が、それぞれの判断で動き、何かを残していった。

何が残ったのか。3つのクラブを順に見ていく。

1. Liverpool ― 強くなる前から、人々はそこにいた

1954年、Liverpoolは2部に降格した。その後、1部に戻るまでに8シーズンかかっている。

それでも、Anfieldには人が来ていた。クラブ史のデータベースLFChistory.netによれば、降格から1958/59までの5シーズン、2部での平均観客数はいずれも3万5千人を超えていた。1部最後のシーズン(1953/54)の40,979人には届かないが、1部に戻れないシーズンが続く中での数字である。

強くなったからファンが生まれたのではない。少なくとも、強くなる前から、平均でこれだけの人がスタジアムに来ていた。

1959年12月、2部のこのクラブにBill Shanklyが監督として着任した。Shanklyは後に、着任から1か月のうちに「去るべき」と判断した選手24人の名前を書き出し、彼らは1年以内にクラブを去ったと振り返っている。選手がメインスタンド裏の駐車場で練習することもあった環境を改め、練習場Melwoodにも手を入れた。

この時期、観客数はむしろ減っている。1959/60の平均は30,270人、1960/61は29,602人。順位はどちらも3位で、成績が落ちたわけではない。ただし、1959/60の平均には、Shanklyが着任する前の試合も含まれる。そしてこの時期は、イングランドのリーグ全体で観客が減り続けていた時期でもあった。歴史家Martin JohnesとMatthew Taylorによれば、リーグ全体の観客は1948/49の4,120万人をピークに減っていった。1960年には入場料の最低額が上がり、1960/61シーズンのリーグ全体の観客は、前季より390万人少なくなった。Liverpoolの減少だけを、改革のせいと読むことはできない。

チームを変えたのは、監督だけではなかった。降格後の取締役会は、限られた資金の中で支出に慎重だったとされる。LFChistory.netの記事によれば、それ以前の監督Don Welsh(1951〜56年)は、選手の選考や獲得に意見できる立場になかったという。1961年、クラブはIan St John(£37,500)とRon Yeatsを獲得した。Shanklyは、St Johnの獲得を取締役Eric Sawyerに推したと回想している。Sawyerは、小売業Littlewoods出身の財務担当の取締役だったと伝えられる。

1961/62シーズン、Liverpoolは2部で優勝し、1部に戻った。昇格を決めたシーズンの観客は39,230人。1部に戻ると4万人を超え、1963/64にはリーグ優勝、翌年には初めてのFA Cupを手にした。

その頃、スタンドでも変化が起きていた。

Anfieldには、1906年に開場した大きな立ち見席がある。「Spion Kop」と呼ばれたこの場所の名前は、クラブ自身の説明によれば、記者が名付けたというより、支持者たちのあいだから生まれた可能性が高い。

1960年代初め、そのKopで、観客がヒット曲を歌うようになる。1963年10月、地元リヴァプールのバンドGerry and the Pacemakersの「You'll Never Walk Alone」が全英1位になり、Kopで歌われ始めた。リヴァプールの音楽(マージービート)が盛り上がっていた時期であり、クラブが優勝に向かっていた時期でもある。1964年、優勝を決めた試合には、BBCの番組Panoramaのカメラが入っていた。

SIM編集部は、こう考えている。Liverpoolには、Shanklyが来る前から、平均で3万5千人を超える観客が通う土台があった。そこに監督と取締役会の判断、競技的な成功、地域の音楽文化が重なり、クラブを象徴する支持者文化として形になっていったのではないか。ただし、どれが先で、どれが原因だったのかを、記録から切り分けることはできない。平均観客数が同じ規模だったからといって、同じ人々が通い続けていたとも限らない。

確かに残っているのは、「Kop」という名前と、「You'll Never Walk Alone」を歌う慣習である。

2. Real Madrid ― 勝つ前に、勝った後の器をつくった

1939年、スペイン内戦が終わったとき、Real Madridのスタジアムは荒れ果てていた。内戦中は収容施設や資材置き場として使われ、クラブは資金も、選手も、組織の多くも失っていた。内戦中にクラブを率いた会長の一人Antonio Ortegaは、共和派に属し、1939年に処刑されている。

1943年9月、Santiago Bernabéuが会長に就任する。Bernabéuは、かつてこのクラブの選手でもあり、内戦では国民派(フランコ側)に属していた。戦後のスペインはフランコの独裁体制のもとにあり、体制とReal Madridの関係については、歴史家の間でも評価が分かれている。今回確認した資料には、政権がスタジアムの建設資金を出したという記録は見当たらなかった。

就任の翌年、クラブ史の書籍によれば、クラブは1944年6月に旧スタジアムの隣の土地を取得した。同じ年の10月に着工し、1947年12月14日、新しいスタジアムが開場する。収容人数は75,145人とされ、そのうち着席は27,645人、立ち見が47,500人だった。

資金を集めるために、クラブは資産を担保にした債券を、1944年から1947年にかけて複数回発行した。合計は3,000万ペセタとされ、その多くを会員が引き受けたと伝えられる。銀行(Banco Mercantil e Industrial)も資金計画に関わった。会長の構想に、会員と銀行が資金の面で加わった形である。

器は整った。ところが、結果はすぐにはついてこなかった。

新しいスタジアムで迎えた最初のシーズン、1947/48。Real Madridはリーグ11位に沈み、最終節に本拠地でReal Oviedoに勝って、ようやく降格を免れた。

次にリーグで優勝するのは、それから6年後の1953/54シーズンである。前の優勝(1932/33)から数えれば21年ぶりだった。この1953年、クラブはAlfredo Di Stéfanoを迎え入れている。Di Stéfanoは同年9月にデビューし、そのシーズンに27得点を挙げた。

ここで、一つの問いが浮かぶ。なぜBernabéuは、まだ勝てていないクラブのために、これほど大きなスタジアムを建てたのか。

その答えを、本人の言葉で裏付ける資料を、今回は確認できなかった。確かめられるのは順番だけである。器が先にでき、勝利はその後に来た。そして、その間には、Di Stéfanoの獲得という、スタジアムとは別の大きな出来事があった。

SIM編集部は、こう考えている。スタジアムが勝利を生んだわけではない。けれど、勝つ前に大きな器を持っていたことで、勝った後のクラブを受け止める選択肢は広がっていたのではないか。

Bernabéuの時代には、もう一つの施設も生まれている。1963年に開設した練習場Ciudad Deportivaである。前回の記事で見たとおり、この土地は2001年に売却され、クラブの債務の解消に使われた。かつて整備された施設が、約38年後にクラブの財務を支える資産として活用された事例でもある。

1947年に開場したスタジアムは、改修を重ねながら、今もクラブの本拠地である。

3. Chelsea ― 土地を守る役割は、誰が担ったのか

Chelseaの話は、土地から始まる。

1970年代、新しいスタンドの建設をきっかけに財政難に陥り、その過程で、スタジアムの土地はクラブから切り離されたとされる。1982年、Ken Batesが£1でクラブを買収したとき、土地は買収に含まれていなかった。1982/83シーズン、Chelseaは2部で18位に終わり、3部への降格をかろうじて免れたとされる。

土地は不動産会社(Marler Estates、のちにCabra Estates)の手に渡り、クラブは立ち退きの危機にあったとされる。ここで、3つの立場の人々が、それぞれ違う形で関わっていく。

一人目は、経営者のBatesである。Batesは不動産会社との長い法廷闘争を続けた。1980年代後半には「Save the Bridge」と呼ばれる募金の呼びかけも行われている(誰が主導したかは、確認できた資料では断定できない)。1992年、不動産会社が市場の暴落で破綻した後、クラブは土地の支配を取り戻したとされる。

二人目は、ファン出身の投資家、Matthew Hardingである。保険業で成功した実業家で、長くChelseaのファンだった。1993年、Batesが新たな投資を呼びかけると、Hardingはそれに応じ、同年10月に取締役となった。投じた額は計£2,650万とされ、北側スタンドの建設資金も含まれていた。当時のサッカー専門誌は、Hardingが土地の取得にも関わったと書いている。ただし、その金額や時期、権利がその後どう移ったのかは、公開資料からは追えない。

二人は、いつも同じ方向を向いていたわけではない。1995年、HardingとBatesはクラブの方向性をめぐって対立し、Hardingは親会社の取締役を辞任して、役員席への立ち入りを禁じられた。翌1996年10月22日、Hardingは試合の帰りに乗っていたヘリコプターの事故で亡くなった。彼が資金を出した北側スタンドは、今もMatthew Harding Standと呼ばれている。

三人目は、一人ではない。Chelsea Pitch Owners(CPO)の株主たちである。CPOは1993年3月11日に設立された会社で(英国の法人登記で確認できる)、CPO自身の説明によれば、二度と立ち退きの危機に陥らないように、クラブがつくった。株はファンに売られ、ファンが株主になった。1997年、CPOはクラブからの融資を使って、スタジアムの土地と「Chelsea FC」という名前を取得したとされる。CPOは今も、子会社を通じてスタジアムの土地を保有し、クラブに貸している。

CPOの説明によれば、クラブがStamford Bridgeを離れる場合、「Chelsea FC」という名前をCPOへ明け渡すか、CPOの許可を得る必要がある。CPO自身は、特定の一人が会社を左右できない仕組みだと説明している。

SIM編集部は、こう考えている。土地を守る仕組みは、クラブの側でつくられた。そこに、ファン出身の投資家が資金を出し、ファンが株主として加わった。3者は常に協力していたわけではない。それでも、クラブの名前と土地を守る役割は、結果として、立場の違う人々に分けて持たれることになったのではないか。

今も残っているのは、ファンが株主となっているCPOという仕組みと、Matthew Harding Standという名前である。

4. 3つのクラブに、何が残ったのか

WHO / ACTION(誰が、何をしたか)LEGACY(残ったもの)
Liverpool2部時代にも平均3万5千人を超えた観客。選手を入れ替え、練習環境を改めた監督Shankly。補強を支えた取締役会。ヒット曲を歌い始めたKopの観客文化: 「Kop」という名前と、「You'll Never Walk Alone」を歌う慣習
Real Madrid土地を取得し、大規模なスタジアムを建てた会長Bernabéu。債券を引き受けた会員と、資金計画に関わった銀行施設: 1947年に開場し、現在も本拠地であるスタジアム。1963年に開設され、2001年に売却された旧練習場
Chelsea法廷闘争を続けた会長Bates。資金を投じたファン出身の投資家Harding。株主として土地と名前の保有に加わったファン制度: 土地と「Chelsea FC」という名前を保有するCPO(株主はファン)。施設: Matthew Harding Stand

並べてみると、残ったものの形がまったく違う。Liverpoolに残ったのは歌と名前という文化で、Real Madridに残ったのはスタジアムと練習場という施設、Chelseaに残ったのはファンが株主となる制度だった。

中心にいた人物の存在は大きい。Shanklyの改革、Bernabéuの構想、Batesの法廷闘争は、それぞれの物語の軸になっている。けれど、どのクラブでも、その周りに別の立場の人々がいた。2部のスタンドに通った観客、債券を引き受けた会員と銀行、資金を出したファン出身の投資家と、株を買ったファン。その行動は、中心人物の判断とは別の形で、クラブに何かを残している。

SIM編集部は、ここから一つの仮説を立てる。残されたものは、文化、施設、制度とそれぞれ違う。しかし、いずれも次の時代のクラブが使える価値だったのではないか。

これは、3つのクラブの事例から導いた編集部の仮説であり、ビッグクラブになるための法則ではない。3つはいずれも、後に大きくなったクラブである。大きくならなかったクラブにも、同じように人々の行動の積み重ねがあったかもしれない。それでも、少なくともこの3つのクラブについては、大規模な資本が入った時点で、すでに何かが積み上がっていた。ビッグクラブは、資本が入った瞬間にゼロから生まれたわけではなかった。

5. 次の問い

価値があり、資本も得た。それでも、大きくなれなかったクラブがある。

次の記事では、そうしたクラブを見ていく。

あなたへの問い

あなたが関わるクラブには、今、何が積み上がっているだろうか。

観客の数やスポンサーの金額も、もちろん大切だ。そのうえで、5年後、10年後のクラブに残せるものは何だろう。