売上という入口

2026年1月、Deloitteがサッカークラブの売上ランキング「Football Money League 2026」を発表した。対象は2024/25シーズン。上位10クラブは、次のとおりである。

クラブ売上(2024/25シーズン、€million)
1レアル・マドリード1,161
2バルセロナ974.8
3バイエルン・ミュンヘン860.6
4パリ・サンジェルマン837
5リヴァプール836.1
6マンチェスター・シティ829.3
7アーセナル821.7
8マンチェスター・ユナイテッド793.1
9トッテナム672.6
10チェルシー584.1

つまり、この記事で取り上げる4クラブ(マンチェスター・シティ、アーセナル、バルセロナ、バイエルン・ミュンヘン)は、いずれも今回(2024/25シーズン)の世界トップ10に入っている。

しかし、この4クラブも、最初から大きかったわけではない。

巻き戻す

教会を母体に始まったチームがある。

兵器工場の労働者たちがつくったクラブもある。

新聞の呼びかけに応じた人々が結成したクラブも、体操クラブを離れたサッカー選手たちが始めたクラブもある。

いずれも、100年以上前のことだ。

今回、私たちは各クラブの公式クラブ史と、クラブの歴史家・研究者による記録、公開されている歴史資料をもとに、その起源をたどった。当時の新聞や文書の原本を、編集部が直接確認したわけではない。

創設された順に、4つの歴史を見ていく。

マンチェスター・シティ:教会のチームと、醸造所のスタンド

始まりは、1880年のマンチェスター東部だった。

ウェスト・ゴートン地区にあったセント・マークス教会を母体に、チームがつくられた。最初の試合は1880年11月13日。対マクルズフィールドで、1-2で敗れている。

なぜこのチームがつくられたのか。誰が中心になったのか。その部分は資料によって記述が分かれ、確定した通説がない。ここでは踏み込まない。

転機は1887年に訪れる。当時の主将ケネス・マッケンジーが、職場からの帰り道、アードウィック地区ハイド・ロードの荒れ地を見つけた。書記のローレンス・ファーニスらが、土地を所有する鉄道会社と交渉し、7か月・10ポンドで借りることに決めた。クラブは新しい所在地に合わせて、名を「アードウィックAFC」と改めた。

グラウンドには、近くのギャロウェイ社の技術工場から提供された資材が使われた。更衣室はなかった。選手たちは近くのパブ、ハイド・ロード・ホテルで着替えた。クラブの会合も、そこで開かれるようになった。

ホテルの店主は、スティーヴン・チェスターズ・トンプソン。クラブ史家ゲイリー・ジェームズの著作を引く記録によれば、トンプソンはクラブがホテルを正式な拠点とすることと引き換えに設備を使わせ、後にはグラウンド内のすべてのバーを営業する権利を得たという。

ホテルを所有していたのは、チェスターズ醸造所だった。醸造所はクラブに大きな影響力を持つようになり、アードウィックは「ブルワリーメン(醸造所の男たち)」という愛称で呼ばれるようになる。

グラウンド最初のスタンド、約1,000席の観客席は、1888年に建てられた。マンチェスター・シティの公式サイトの記事によれば、その費用を負担したのはチェスターズ醸造所だった。その見返りとして、醸造所はグラウンド内で酒類を販売できるようになった。公式サイトの記事は、この取り決めを「厳密に言えばスポンサーシップ・パッケージにあたるもの(technically a sponsorship package)」だったと表現している。

1893-94シーズン、財政難でアードウィックが行き詰まった。元ゴートンの選手だったファーニスが、自らクラブの負債を返済している。

1894年4月16日、「マンチェスター・シティ・フットボール・クラブ」が有限会社として発足した。新しいクラブは、マンチェスター全体を代表することを目指していた。

発足から1年足らず、1895年には観客が2万人を超えるようになった。同年の聖金曜日の試合では3万人を記録している。1899年に2部優勝で1部へ昇格。1904年4月23日には、対ボルトンで1-0、FA杯初優勝を果たした。

ハイド・ロードの収容力は、1887年の5,000人未満から、改修を経て1904年には4万人に達している。

教会のチームから始まったこのクラブには、途中から醸造所という、サッカーとは別の事業を営む企業が関わっていた。

人が集まることは、クラブ以外の誰にとって、価値になるのだろうか。

アーセナル:兵器工場の労働者のクラブが、その街を離れるまで

1886年の終わり、ウーリッジにある王立兵器工廠の労働者たちが、チームをつくった。

工廠内の工房の名から、「ダイヤル・スクエア」と名乗った。1886年12月11日の初試合で、イースタン・ワンダラーズに6-0で勝っている。

中心になったのは、スコットランド出身のデイヴィッド・ダンスキン。ダンスキンを含め、16人だったとされる。

グラウンドは、プラムステッド・コモン、スポーツマン・グラウンド、マナー・グラウンド、インヴィクタ・グラウンド、そして再びマナー・グラウンドへと移っていった。

1891年、クラブはプロ化した。これによって全クラブからボイコットされ、ロンドン・フットボール協会を脱退することになった。

1893年、クラブは有限会社化する。862人が1ポンド株を1,552株購入した。株主の多くは、地元に住む肉体労働者だった。

同じ1893年、クラブ名を「ウーリッジ・アーセナル」に改め、南部のクラブとして初めてフットボール・リーグ(2部)に加入した。

しかし、プラムステッドは当時、ロンドンの周縁にある人口の少ない地域だった。観客数と収入は伸びなかった。1900年代初頭のマナー・グラウンドの平均観客数は約11,000人で、それ以前より減っていた。

1910年、クラブは自主清算に追い込まれる。不動産業で財を成した実業家、ヘンリー・ノリスらのグループが買収した。

ノリスは、人口が多く交通網の整った地域への移転を決めた。移転先に選ばれたのは、北ロンドンのハイバリー。1913年、クラブはウーリッジを離れ、ハイバリーへ移った。

トッテナム、クラプトン・オリエント、チェルシーはリーグに抗議した。地元住民にも不満があった。1913年3月、リーグは介入できないと判断している。

移転後、最初のシーズンの平均観客数は23,000人。1900年代初頭のマナー・グラウンドの約11,000人を上回る数字だった。

1925年に監督となったハーバート・チャップマンは、最寄りの地下鉄駅「ギレスピー・ロード」の駅名を「アーセナル」に変えるよう働きかけたとされる。改称は1932年。駅の名前が、クラブの名前になった。

兵器工場の労働者たちが株主として支えていたクラブは、その街を離れることで存続した。

クラブが「どこのクラブか」は、誰が決めることなのだろうか。

FCバルセロナ:新聞の呼びかけに応えた人々と、1908年の危機

1899年10月、スイス出身のハンス(ジョアン)・ガンペルが、地元紙に呼びかけの広告を出した。

1899年11月29日、ジムナシオ・ソレに集まったガンペルと11人が、クラブを結成した。スイス人、イギリス人、ドイツ人、カタルーニャ人、アラゴン出身者。出身も国籍もさまざまな人々だった。

公式クラブ史によれば、ガンペルは出自を問わず誰にでも開かれた組織を構想し、クラブは民主的に運営され、誰もが意見を言える場として機能したという。エンブレムには、バルセロナ市の紋章が採用された。

1909年以前、本拠地は定まらなかった。ボナノバの自転車競技場、ホテル・カサノバスの敷地、カレテラ・ドルタ、カレール・デ・ムンタネーのグラウンドと、転々とした。

1908年、クラブは財政的にも社会的にも行き詰まる。会長ビセンス・レイグは、就任からわずか22日で辞任した。会合の場で、理事フランセスク・サンスが状況を説明した。沈黙が流れた。副会長で選手でもあったカルロス・ウォレスが、こう問いかけたという。

「クラブを救おうという者は、誰もいないのか」

そこでガンペルが立ち上がった。「バルセロナは死ねないし、死んではならない。誰もやらないなら、私がクラブの運営を引き受ける」

1908年12月2日、ガンペルは会長に就任する。失われた会員の回復に取り組み、会員は200人を超えるまでに戻った。同じ1908-09シーズンのカタルーニャ選手権を、クラブは無敗で制している。

1909年3月14日、初めての自前のグラウンド、カンプ・デ・ラ・インドゥストリアが開場した。1912年には、スペインで初めての2層スタンドが建てられ、収容6,000人に。スタンド最上段に座るファンの姿が、外の通りから後ろ姿(お尻)だけ見えたことから、ファンの愛称「クレ(culers)」が生まれたとされる。1909年からは、ランブラス通りのカナレテスが、試合結果を知らせる公式の集合場所になった。

1910年のコパ・デル・レイ優勝後、選手たちはパセジ・ダ・グラシア駅で英雄として迎えられた。エンブレムは、聖ジョルディ十字とカタルーニャ旗の4本線を含む意匠に変わっている。

公式クラブ史によれば、ガンペルはクラブをカタルーニャのアイデンティティと結びつけた。

会員数は、1909年の201人から、10年足らずで2,973人へ。1922-23シーズン終了時には、1万人を超えていた。1922年5月22日、新しい本拠地レス・コルツが開場している。

呼びかけから始まったクラブが、カタルーニャのアイデンティティと結びついていく。

サッカーチームは、いつから、人々のコミュニティや、街のアイデンティティになるのだろうか。

バイエルン・ミュンヘン:体操クラブを出た選手たちと、「独立」を残した合流

1900年2月27日、ミュンヘンの体操クラブMTV1879が、自クラブ内のサッカー部門(1897年設立)を南ドイツサッカー協会に加盟させることを認めなかった。これに反発した、フランツ・ヨーンを中心とする11人のサッカー選手が、MTV1879を離れた。

ミュンヘン中心部のガストハウス・ギーゼラで、新しいクラブが創設された。創設の文書には17人が署名し、ヨーンが初代会長(1900-1903年)になった。創設メンバーは、主にミュンヘンの知識層・専門職層の出身だったとされる。

当初、市からシーレンヴィーゼ(シーレン草地)が活動の場として提供された。1901年には、支援者フリードリヒ・ヴァムスラーが、シュヴァービング地区クレメンス通りの、柵で囲まれた土地を提供している。

FC Bayernの公式クラブ史によれば、1906年1月1日、バイエルンは財政上の事情と、グラウンドを確保できないという問題を解決するために、裕福なスポーツクラブ、ミュンヘナー・シュポルト・クラブ(MSC)と手を組んだ。

それでもバイエルンは、独立を保った。唯一の譲歩は、MSCのクラブカラーである白いシャツと赤いパンツを身につけることだった。この色は、今もFC Bayernが身につけている。

1907年9月からは、レオポルト通りのグラウンドを使った。1909年には、MSCの一部門として初めてのタイトル、バイエルン地域リーグ優勝を得ている。

1919年春、第一次世界大戦で弱体化したMSCを離れ、バイエルンはミュンヘン最大の体操クラブ「体操協会ヤーン」と合併した。しかし1923年、約束されていた運動施設が提供されなかったため、再び分離する。1906年以来、初めて独立したクラブとなった。以後、その独立は保たれている。

外部の力を借りることで、バイエルンは財政とグラウンドの問題を解決しようとした。その一方で、MSCのクラブカラーを身につけることを受け入れた。

外部の力を借りるとき、クラブは何を渡し、何を残すのか。

終章:まだ、答えは出ていない

4つの歴史を見てきた。

教会のチーム、兵器工場の労働者たち、新聞の呼びかけに応えた人々、体操クラブを離れたサッカー選手たち。始まりの形は、ひとつとして同じではなかった。

人が集まることは、クラブ以外の誰にとって価値になるのか。クラブが「どこのクラブか」は、誰が決めるのか。サッカーチームは、いつから街のアイデンティティになるのか。外部の力を借りるとき、クラブは何を渡し、何を残すのか。

では、この小さなクラブたちは、ここから何によってビッグクラブになったのか。

Issue #003は、この問いを追いかけていく。